近代日本の草創期に生まれ、今なお「翁」と言われ故郷の人々から敬愛されている先人たちがいます。
彼等は、地域のため、国のため、そして人のためにと様々な事業を興し、この地域の都市基盤の整備や生活の質の向上に貢献しました。そして彼等のDNAは、現在もこの地に操業し続ける企業やその従業員、そして市民にも受け継がれ、地域の発展や豊かな生活環境の創造へと取り組ませています。
その取り組みを支え続けたのが、石炭、粘土、石灰石、大理石などの豊かな天然資源でした。
「持続可能な社会」を創り上げていくことが、21世紀に生きる私たちに課せられた大きな課題ですが、この地域の人々が長きにわたり営んできた自然と生活、そして産業との共生の姿を学ぶことは、このことを解決に導く大きなヒントになるのではないかと思います。
それが私共の提案する「CSRツーリズム」です。どうかじっくりと味わってください。
宇部・美祢・山陽小野田産業観光推進協議会
1864年宇部の旧小串村島(現、宇部市)で畔頭を務める國吉恭輔の二男として生まれ、今年(令和6年6月16日)はその生誕160年の節目に当たる。
1897年創業した沖ノ山炭鉱(現、UBEグループの前身)の事業化に成功し、その収益を惜しむことなく、地元の「社会的資本(電気・水道・鉄道・道路・港湾・病院など)」「教育機関(幼稚園・小学校・女学校・徒弟学校・中学校・工業学校など)」「新しい産業(機械・セメント・紡織・紡績・窒素工業など)」に注ぎこみ、石炭資源の無くなった今でも持続的発展を遂げる産業都市宇部の根幹形成に大きく貢献したことで、銅像や宇部市渡辺翁記念会館などで、その名が宇部の歴史に刻み込まれている。
新潟県三島郡間瀬村で生まれる。1897年大倉土木組に入社。幹部の一人から感化を受け1897年東京の霊南坂教会で牧師留岡幸助から洗礼を受ける。その後、宮内省東宮御所造営局現業課兼監材課に奉職することなり、山口県秋吉村での大理石の石質検査の命を受けるが、官庁をやめ長門大理石採掘所を設立し、出獄者、不良者達を雇い更生の指導にもあたる。波乱万丈の人生を歩みながら、地元に溶け込むだけではなく、人や産業を牽引する優しさと力強さを持ち、秋吉の地域に大きな足跡を残していった。
萩藩御船手組の有田甚平の三男として萩城下で生まれる。7歳のとき、萩藩士笠井英之進の養子となる。1873年山口県勧業局主任。1877年以降は県の役職を辞して旧藩士族の授産事業に尽力し、1881年民営としてはじめて「小野田セメント製造株式会社(現、太平洋セメント)」設立を認められ、1883年、工場を厚狭郡西須恵村(現、山陽小野田市)小野田新開作に建設。現在の山陽小野田市発展の支柱となった。
宇部・美祢・山陽小野田産業観光推進協議会は、「産業観光」の総合的かつ効果的な推進による宇部・美祢・山陽小野田地域の振興を図ることを目的として、地元の経済団体、企業、市民グループ並びに国・県・市の行政機関が共同で設置した任意団体です。
「ご当地ならではの旅づくり」を担う「着地型エージェント組織」の育成を目指して活動しています。